慶長8年3月24日、
徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開府した年、立花左近将監宗茂が、
5000石で将軍親衛隊たる御書院番頭に任じられ、屋敷を賜った。
屋敷と言っても徳川家の旗本屋敷は、屋根は板葺き、
壁は荒土塗りがデフォで狭苦しい割には、敷地が広かった。
しかし、翌年には棚倉1万石、数年後には同地で3万5千石に加増された立花家では、
加藤清正に預けていた家臣を再雇用したり、
江戸や棚倉で新規雇用したりして3万5千石にふさわしい家臣団を揃えた結果、
屋敷は足の踏み場もないほどの狭さになってしまった。
どれぐらい狭くなったかというと、重臣である十時摂津が、棚倉から江戸に来た際に、
寝る部屋がなく側近たちと一室で雑魚寝したほどである。
「これではいかん。奥の侍女と若い侍連中が間違いを起こして不義を起こしかねない。よし!」
立花最強家臣団中、最も小物の十時摂津とはいえ、言う時は言う漢である。
宗茂のもとに伺候すると早速切り出した。
「殿、3万5千石の大名の屋敷にしては、いささか手狭になりましたな。
世上では、立花殿は、吝嗇故に屋敷を広げない、
いや関ヶ原の一件を未だに遠慮して屋敷を建て替えないなど噂になっております。」
「馬鹿な事を!」
「世上とはそのようなものでござる。幸いにも当家の庭は、広うござる。
庭を潰して屋敷を広げませぬか?」
「無用!」
「はぁ?今のままでは、当家の若侍と奥方様の侍女との間で、不義密通が起きかねませんぞ。
そうなればお家の恥。」
「不義密通? 国法を犯すを不義、敵に密かに通じるを密通と言うのだ。
男女のことは、奥に任せている。そう言えば、
奥の差配で婚儀が数件あったな。」
不惑を超えても男女のことに疎い主君の一言で、
一瞬、十時摂津が脱力した瞬間を捉え、宗茂が、得意の説諭を始めた。
「そもそも、立花の軍が強い所以は、如何に?」
「言うまでもなく一和にござる。家臣を家族のごとく殿が慈しむゆえ、
我らも戦場において殿のために一命を捨てて戦うのでござる。」
「ふむ、さすが摂津、よくわかっておるではないか。それゆえに屋敷は広げんのだ。」
「???」
「かの関ヶ原にて、わが立花家は一度潰れた。
その際、浪々の身になった我を見捨てずに養ってくれ家臣は、
わが家族も同然。
家族なら毎日、顔を合わせるのが当たり前ではないか。
屋敷を広げれば、家臣と主君の間が隔たって、
毎日顔を合わせることもなくなる。
ましてや新規に召抱えたものの性根など、顔を合せる機会が無ければ、
わかるはずもなかろう。
一和がならねば、立花の武威など朝露のごとく消え去ろう。」
「しかし、家臣が一室で雑魚寝とは、他家への聞こえが良いとは・・・。」
「つまらぬことを申すな。雑魚寝することで、自然に互いに他をいたわり、気を使いあうようになるのではないか。
そもそも我が立花の3千が他家の1万に勝ると言われるのは、
道雪公以来の一和の精神によるものぞ。」
と言って、宗茂は摂津の意見を取り上げなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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