関ヶ原の後、立花宗茂は加藤清正によって肥後の高瀬という場所に保護され、
謹慎していたが、
翌年の春、宗茂は清正に、
「これまでの御芳志によって、心静かに休息させていただき、満足この上もありません。
ですが私は現在、暇を持て余している遊人ですので、
都に上り名所旧跡を見物したいと思っているのですが、
これをどうお考えでしょうか?」
これに清正は、
「尤もの仰せです。どうぞ御心に任せて下さい。この清正からも一つ馳走させてもらいます。」と、京までの旅行について懇切に取り計らい、宗茂を京都まで上らせた。
宗茂は京都、南都(奈良)、泉州堺などを心静かに遊覧し、三年の春を送った。
「今度は江戸に行ってみたい。」と思い、
慶長8年の秋ごろ、江戸に行き高田の宝祥寺に忍んで滞在していたのだが、
旧交のある大名小名が、これを聞きつけ訪問してきたため、
後々は忍ぶも何も無いような状態で、諸大名の馳走に会って、
彼方此方と忙しくしていた。
そんな時、土井大炊頭(利勝)が取り持ちをして、
この宗茂の江戸滞在のことが、
大御所(徳川家康)に伝えられた。
このとき家康は、
「先年関ヶ原の時、宗茂が石田に与したのは心から出たことではない。
後から聞いたところだが、
宗茂は小早川秀包と共に、毛利輝元に色々と異見したのだが、
輝元が聞く耳を持たなかったので、
致し方なく大津城の攻め手に加わったのだという。
宗茂にとっては詮方無き次第であったのだ。
大炊頭、その方より宗茂に、彼が輝元に異見した当時のこと等を聞き、
その上で今後の身の上について相談をしてくるのように。」
そうして訪問した土井利勝に、宗茂も徳川家から扶持されることに、
いまさら異議はないと答え、
直ぐに召し出され奥州棚倉において1万石を、堪忍分として与えられた。
この時、立花宗茂は、
「この度1万石を仰せ付けられたことを、完全に満足とは思っていない。
だが、関ヶ原の折、私が毛利輝元に諫言したということが上聞に達した。
これこそ私の本懐であり、どんなものもこれに過ぎることはない。」
そう言って喜ぶこと限りなかったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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