関ヶ原の直後のことである。
西軍方についた筑後柳川の立花宗茂は、何とか領国に帰還したものの、
いつの間にか西軍方から東軍方になっていた隣国、
鍋島直茂・勝茂に三万五千もの軍勢で攻め寄せられた。
一説によれば宗茂を討つことが徳川家康からの赦免条件だったという。
立花方も一万二千の軍勢を集めたものの、すでに天下の大勢は決している。
「領内に攻め込んできた敵と戦わなければ武門の恥辱。
しかし、家康殿には恭順を示さねばならぬので、殿は出陣しないで下さい。」
宗茂は家臣たちの意見を受け入れ、次席家老の小野和泉守を大将に命じた。
一方、進撃する鍋島軍は成富兵庫を使者として決戦を提案。
宗茂もこれを受け入れた。かくして慶長五年十月二十日、江上・八院合戦が開始された。
小野和泉守率いる三千と鍋島軍三万五千は凄まじい激戦を繰り広げたが、
やはり立花軍の被害は大きく、歴戦の将が次々に討死した。
その中に、侍大将十時摂津守の一門で、十時新五郎惟久という少年がいた。
彼は黒猫を飼っていて、とても可愛がっていた。
が、この度の合戦で討死間違い無しと考え、猫に別れを告げて出陣していた。
そして乱戦の中、鉄砲に撃たれて落馬したところを討ち取られ、
鍋島兵に首を挙げられてしまった。
が、その兵が惟久の首を持って引き上げようとして橋を通りかかった時、
突然、黒猫がうなり声を上げて襲いかかってきた。
猫はひと噛みで兵の喉を喰いちぎり、惟久の首をとって口にくわえ、逃げ出す。
鍋島軍は慌てて鉄砲玉を浴びせ、橋の真ん中で被弾した猫は首とともに水中へ没し、
そのまま首も猫も見つからなかった。
やがて合戦は黒田如水・加藤清正の仲介で終結。
戦の終わった後、村人たちが死体を片付けていると、
惟久の遺体のすぐ側に全身穴だらけになった黒猫が惟久の首をくわえたまま倒れていた。
黒猫は命と引き換えに大好きなご主人様の首を守りぬいたのである。
以後、この地域は「猫橋」と呼ばれ、
現在も佐賀県三養基(みやき)郡みやき町にその名が残っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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