九州の逸物☆ | げむおた街道をゆく

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天正15年(1587)、佐々成政が肥後を拝領後、検地の強行から起こった、

いわゆる肥後国人一揆。
 

山鹿の城には一揆勢の、有動入道が籠っていた。
これに対し佐々は、山鹿の近辺に付城を築き、そこに家臣、三田村正左衛門を置いた。

この城に兵糧を入れるため、毛利家より安国寺恵瓊を大将として部隊が派遣されたのだが、
一揆勢は”うちのごか”と言う所から人数を出し妨害、これにより兵糧入れに何度も失敗した。

さて、それにより新たに兵糧入れを命ぜられたのが立花宗茂である。

宗茂は考えた。『毛利の兵糧入れは、兵士を先に立て、兵糧を運ぶ人夫を後方に配置
しているために、敵に隊尾に付かれると、これを払う事ができないのだ。』

そこで宗茂は兵士と兵糧持ちを、一列づつ交互に置いた。
これにより敵が出て来ても即座に対応ができ、一揆勢を追い払い、

無事、兵糧を城に入れることができた。

この時は宗茂自身も槍を持って戦い、また、この時立花家にいた、
例の安田作兵衛も大暴れしたそうだ。
 

この働きにより宗茂は、豊臣秀吉よりじきじきの感状を与えられている。


さてさて、その兵糧を入れた帰りの事。

一揆の軍勢は道路を封鎖し、伏兵を置いて立花勢を待ち構えていた。
軍中で『本道を通るか、別道にするか、』との議論になったが、

宗茂は「本道を行く!」と、理由を言わないまま決定した。

その道は堀切が作られ待伏せが置かれ、立花軍がこの道を通れば、

たちまち襲い掛かって血を吸わんと、牙を剥いている態であった。

が、立花軍突如方向を変え、この街道沿いの一揆勢の出城に攻めかかる。
この城を落とすと、そこに籠っていた人々を人質として先頭に立て、

さらに街道沿いに点在する城に次々と攻め寄せる。

地元民の同盟である一揆は、仲間を人質にしている立花軍を、うかつに攻める事も出来ず、
このため九つの城が、瞬く間に落城したと言う。

この立花宗茂の活躍を、豊臣秀吉は「九州の逸物」と、大いに褒め称えたと言う事である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 忠義と剛勇は鎮西一・立花宗茂、目次

 

 

 

 

 

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