立花宗茂の家は、小野和泉(鎮幸)と立花三河(薦野増時)の両家老の二派に、
常に分かれていた。
小野和泉は若年よりその武勇人に越え、九州においては隠れなき武人であった。
彼の生まれたちは卑しく、物を言う様子も全く下郎たちと同じで、分別もなく、
普段は何の役にも立たない人物のように見えるのだが、度々の手柄は肩を並べる者も居らず、
そのため六千石を取り一の家老となり、その威勢を誇っていた。
立花三河は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人に越え、
田舎侍には稀なる人材であると、
同僚たちも思い、他家からも賞賛され、
その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
今は物事を素早く進行させるのが良いと思う時代であるが、
とりわけこの者ははややかであった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、
武功を加えていた。
しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、
武儀は二番のように言われるのが、今の世の習いである。
そして人は、分別がなく傍若無人なことを言いまわり、
大抵は愚鈍で子どもじみた作法の者を、武辺者と言うことが多い。
これは珍しいことではないが、立花三河も、能力のある人物であることは確かなのに、
利根であることに押され、武儀は二番のように、
家中でも特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたそうだ。
このようであったので、小野和泉派の者達は、
何時も武辺事ならば我らの出番であるとし、
立花三河派の者達に対してが、
それが誰であっても武辺事に仕る者とは常に思わなかった。
そして親しき友人、あるいは兄弟においてこの2つの派閥にわかれた者達の間では、
小野和泉派は相手を「比丘尼組」、
立花三河派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、
それぞれに腹を立てさせることもあったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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