常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、
家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした。
その後、夜明かしで酒宴を張るのも恒例となっていた。
この頃、太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、
この事を知って色々と工夫をしたが、ついに小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、
彼のもとでも、この行事は行われていたのである。
三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、
佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した。
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、
大晦日の夜に兵を出せば、正月には城はこちらの手にあるだろう。」
これに多賀谷側より、
「その内応する者とは誰か。」
と問われると、三楽斎はそれらしき書状を二、三出してみせた。
それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。
その年の大晦日、
三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。
そこで人馬を休めつつ、手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が、
「三楽斎殿、これはどういうことか。」
と尋ねると、
「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」
と答えた。
一同驚き、
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か。」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」
憤る彼等に三楽斎は、
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。
小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」
こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、
夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。
三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸などの勇士は、
真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。
小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。
連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の驚きようであり、
周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、
堀を乗り越え、狭間に潜って逃げ出し、
敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、
菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。
そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。
ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、
その大雪の日に、
小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡といった家臣を率いて、不意に押しかけ、
小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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