律儀なる佐竹義宣☆ | げむおた街道をゆく

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権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、

御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ。」と語った所、
これを聞いた家康は、
「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。

私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」
そう仰せに成った。

 

しかし、これを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、

御前に居た永井左近が、
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、

先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。

この時、大阪からの道中を佐竹義宣が警護して上がった。

その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、

その道中において大名たちが語らって、
彼を討ち果たすとの風聞があった。

そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、

『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』

と、道中に目付け物聞きを置き、

何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を救援すると、

上下とも軍装のまま待機していたという。

となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後、関ヶ原の一戦の時も、大坂方にも我々にも付かず、

心底がわからず訝しいと思い、しかしそのままには置いておけなかった。

もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、

朝熊も先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、

残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、

律儀すぎると、事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 今の世に稀な律義者・佐竹義宣、目次

 

 

 

 

 

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