佐竹義宣が、石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、
年来、義宣の下知に従おうとしなかった。
石田三成は、関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、
義宣はこの人に付いて、
「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」
と訴えた。
三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、
秀吉は、
「下知に背くものは尽く誅すべし。」
と仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、
そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、
所領尽く併呑した。
関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時、佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は、義宣を諌めた。
「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、
10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、
天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし、一旦ここを去ってしまえば、
もうどうにも出来なくなるではありませんか。」
しかし義宣は言った。
「お前の言葉は理あるに似ている。
だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは違っていなかった。
私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、
彼らが背き離れようとしないのは私を畏れるためではない。
内府の威を憚っているからだ。
お前は私のために命を惜しまぬと言うが、
どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?
戦が始まる前に、内乱が起こればそれこそ、
どうしようもなくなる。」
こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし、群馬丹波守猛虎は、
「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、
何の功があるだろうか!
我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、
徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、
事表れて捕縛され斬られた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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