天正18年(1590)の小田原の役によって、
常陸の佐竹氏は外敵からの驚異からは解放された。
が、そうなると今度は内部の問題が出てくる。
佐竹氏の内部には、南方三十三館と呼ばれる、
半独立の強力な国人集団があったためだ。
佐竹氏はこのときは未だ、国人集団の盟主に過ぎなかった。
君主権の確立を目指す佐竹義宣は、
この状況を脱するため今まで以上に豊臣政権に近づく。
小田原の役の後、
いち早く伏見に屋敷を作りここに妻子を置いて秀吉を大いに喜ばせ、
また秀吉側近、石田三成に接近し懇意となった。
さて、そんなある時、佐竹義宣が秀吉の御前に出ることがあった。
そこには石田三成の姿もあった。
参上した人々に秀吉が声をかけ、物語などが始まると、
三成は秀吉に向かって申し上げる。
「殿下(秀吉)は未だお知りにならないのでしょうか?
殿下は、常陸の国のことを、
そこに居る佐竹義宣の下知に任せると、
既に御教書まで下し置かれました。
ところがどうでしょう。
常陸の国人達は一向に佐竹の下知に従わないと聞き及んでいます。
これはつまり、殿下の仰せを侮っているということです。
このような状況であるのに、なおご寛大に彼らを許していては、
殿下の命に違反する輩、日々各国に出てくることでしょう。
ここはどうしても、何らかの処分が必要です。」
これに秀吉はみるみる機嫌が悪くなり、
「三成、お前の言うところ道理がある。
佐竹義宣!お前の下知に従わない連中には、
わしの許可を得るまでもない、自らの手で処分せよ!」
と、佐竹義宣に申し付けた。
義宣は、当然ながらこれに大いに喜び、
早速帰国すると天正19年(1591年)2月9日、
南方三十三館を花見と偽り常陸太田城に呼び寄せ、
そこで皆殺しにした。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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