慶長四年(1599)閏3月3日の、いわゆる七将による石田三成襲撃事件。
伏見に逃げた三成を匿った佐竹義宣は、
筆頭大老・徳川家康に事態の収拾を依頼。
家康はこれに、七将による三成引渡し要求を拒否した上で、
三成の佐和山への引退を要求した。
さて、家康から引退勧告を受けた三成である。
重臣らとこの勧告に対しどうすべきかを相談したが、
この時、島左近が進み出て言う。
「軽率に佐和山に下るのは、断固反対です!
だいたい今回の襲撃、内府があの七将を煽ったに違いありません!
であるのに、親切に事態を収集してくれたなどとうかつに信じて、
佐和山に向かう途中で襲われれば、
末代までの嘲りとなるでしょう!」
左近、テンションが上がってくる。
「我が石田家が動員出来る軍勢はおおよそ1万強、
と言ったところです。
今から急ぎ佐和山に使いを送り、
押さえの兵を除いて9千を呼び寄せましょう。
そしてこれを四手に分け、それがしに二千、舞兵庫に二千、蒲生備中に二千、
そして殿の旗本に三千、これにて先ず、
ここからすぐ近くにある浅野幸長の屋敷をはじめ、
諸大名の屋敷に次々と火をかけ、
それがしと舞兵庫、蒲生備中の三人が先手となって、
豊後橋より内府の屋敷に攻め入るべし!
しかし内府も心がけのある武将です。
手の者に防戦させ、その間に退去するでしょう。
退去した場合、大和路ならば宇治あたりで追いつくでしょう。
山科方面ならば蒲生備中が詳しく、
木幡越であっても瀬田を超えさせはしません!
大阪の諸侯が騒いだとしても、にわかのことで対応など出来ようもなく、
その間に内府を討てば、
味方は勇み敵は屈し、勝利は我らのものとなるのです!」
この辺で左近、テンションMAXになる。
「この計画が失敗すれば、我が石田家は滅亡となるでしょうが、
天下のためにもこれはするべきなのです!
さあ立ち上がりましょう、殿!!」
天下の義挙の前に石田家などどれほどのことがある!
左近の猛烈な熱意に、三成は答えた!
「やっぱ佐和山に下ろう。素直に。」
家臣の癖に計画の中で勝手に石田家を犠牲にしたのがまずかったか。
島左近、三成の説得に失敗する、の巻。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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