1607年、龍造寺高房(22歳)は、
江戸の屋敷で妻(19歳)を殺害、自らも自害を図った。
発見が早かったため一命をとりとめた。
高房に事情を問いただすため幕府からも使者が来たが、何も答えなかったという。
直茂は龍造寺政家に書状を送った。
この手紙が世に言う「おうらみ状」である。
「自分は隆信様の死後、龍造寺家を盛り立ててきた。
領国の経営は仮に自分が預かってはいるが、
常に龍造寺家を大切にしてきた。
高房様には江戸でのお暮らしに不自由がないよう、
十分な仕送りもしている。
しかるになぜ高房様はこのようなことをなさるのか。
誰にあてつけたのでしょうか。
高房様が国元に戻られたら、政家様が質問して下さい。
その上で我々親子も申し開きをします。」
高房は佐賀で療養するはずだったが、帰国することはなかった。
半年後ふぐを食べ(当時ふぐは食用を禁じられていた)自らの命を絶った。
政家は翌月高房の跡を追うように死去。
龍造寺本家は断絶した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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