鍋島直茂公、曰く、
「木曾義仲は平家を撃ってこれを走らせ、
京において驕奢を究めて、遂には義経のために亡ぼされた。
義経は平家を撃ち亡ぼし京にあって義仲よりも一層栄花に誇り、
遂には梶原景時の讒言によって亡びた。
この二人は思慮もなく成り上がったので、鎌倉への取り繕いがなかった。
鎌倉より検者を乞いてそれぞれ資財などを与えて、
折々の取り繕いがあれば、
思いのまま天下を占めることもできただろう。
才覚が下手だったのだ。
弁慶を文武二道の者というが、分別は文武の外たるべし。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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