当時の北九州の諸豪族の動き、陶が滅ぶと毛利に付き、
毛利が大友に北九州から駆逐されると、大友に降っている。
氏貞は、豊後三老である臼杵鑑速の娘を大友宗麟の養女として妻に向かい入れ、
更には、自分の妹であるお色を、大友家同紋衆である立花道雪の側室にしたのだが、
氏貞がお色の化粧料として立花家に贈った西郷・若宮の領地が悲劇の発端となった。
立花家の家老で鷹取城城主のの森鎮実が領内不作による食糧支援を道雪に求めた時、
道雪は直に食糧を輸送した。
ところがこれに対し、かねてから立花家に不満を持っていた、
若宮の若宮郷氏が輸送の邪魔を計画。
そしてそれに立花と筑前の覇権を巡って争っていた秋月氏がしゃしゃり出て、
あまつさえ、その動きを止める為に派遣された宗像氏の家老2人も、
この襲撃計画に加わってしまった。
まあ襲撃そのものは、立花勢の前になすすべもなく失敗してしまうのだが、
この事に道雪大激怒。
何と計画を最後まで辞めさせようとした宗像氏貞討伐の命令を発してしまう。
流石に重臣である由布雪下・小野和泉が、
「いや・・・宗像氏貞は数少ない親大友派なのに、
こちらから敵方に走らせたらまずいでしょ。」
「そもそも宗像氏貞は止めているんだからそこを考えましょうよ。」
と言って、サポタージュするのだが、道雪の怒りは収まらず、
結果氏貞は大友と敵対する事になる。
哀れを留めたのは、宗像と立花の絆を深める為に側室となったお色。
彼女は天正十二年三月二十四日に病死するのだが、
奇しくもそれは長州派宗像氏が、
宗像正氏の先妻とその娘を惨殺した日の翌日にあたるという。
なお、立花宗茂は、この不遇の人を哀れんだか、
お色の生前、彼女の付き人たちにも温情を以って接し、
彼女の死後、寺に寄進をしたりしている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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