立花道雪が、落雷で半身不随となり不幸にみまわれた頃(1576年頃)のお話。
当時、龍造寺家、毛利家との争いが激化しており両家との合戦中のことであった。
道雪が、指揮している部隊の一角が崩れ大ピンチ!
そんな時、道雪が大声で叫んだ。
「我が輿を敵中に入れよ!命が惜しければその後輿を置いて逃げよ!」
主君を敵中に置いて捨てていく事など出来ない。
輿周りの武者達は、一斉に太刀を抜き敵陣深く突撃し始める。
まっしぐらに敵軍のど真ん中へ輿が突撃し始めると、
道雪は三尺ばかりの棒を取って輿を叩き、
「エイトウ!エイトウ!」
という声を上げる。
これを聞いた武者達は、「それ戸次音頭が始まったぞ!」と、
言うやいなや、我先にと競って敵を攻めたてる。
一旦は崩れた者たちもこれを聞くと、皆脇目も振らずに敵陣に突っこみ、
一斉に斬りかかる。
万一部下たちが躊躇していると、
「どうした、はようせい!!」と怒声が響き、
鬼の形相で輿の前後を激しく棒で叩かれる。
そのため道雪の部下たちは遅れをとることを、
敵から逃げることよりも恥としたという。
この噂は遠く武田信玄にまで届いており、
道雪と相見えたかったと言ったという。
このような恐るべき雷公様へ、養子に行く事になった宗茂。
宗茂の実父・高橋紹運は、
「宗茂は当家の嫡男であります。平にご容赦を。」
と断ったのだが、
道雪は事あるごとに何度となくねだり、ついに首を縦に振らせたという。
宗茂の婿入りが決まり、立花山城へ向かうため別れる宴でのこと。
紹運は自らの愛刀である備前長光を差し出した。
「宗茂、これを取らす。受け取るがよい。」
「はっ、有難き幸せにございます。」
「これより親子の縁を切る。」
「は、はっ?父上、それはどういう…」
「戦国の習いじゃ。こののちわしとお前が敵味方になったらその時は自ら願い出て
道雪殿の先鋒となり、この刀でわしを討ち取りに参れ。よいな?」
「…」
「返事はどうした?道雪殿は未練がましいことを好まれぬお人柄ゆえ、
何事にも迷いがあってはならぬ。」
「はっ!宗茂、承知つかまつりました!」
「うむ。またお前が何か不覚により、
道雪殿から離縁される事があるかもしれないが、
その時は当城に帰って来てはならぬ。潔くこの刀で自害せよ。」
このようにして刀を宗茂に与え、道雪の元へ送り出したという。
時は流れて天正12年(1584年)頃のこと。
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家に敗れ戦死したため、
龍造寺家が島津家の傘下となってしまう。
立花・高橋軍は結束して龍造寺・島津勢を破って筑後への侵攻に成功するが、
道雪が筑後・猫尾城攻めの陣中にて高齢のため病に陥ってしまった。
道雪の容態を気遣う手紙を送ってきた宗茂・誾千代に対し、道雪はこう返した。
「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ柳川の方に向けてこの地に埋めよ。
その後陣を引くがよい。」
その後、道雪は亡くなってしまったが、
宗茂夫妻、家臣一同敵陣へ道雪の亡骸を、
置いたまま陣を引くことなど出来ないという結論に達した。
道雪の棺を輸送しながら陣を引くことになったのだが、
何故か島津勢からの追撃がない。
ふと島津陣中を観ると、
道雪の死を悼み喪に服する島津勢の姿があった。
島津勢の中には、道雪の死に涙する者も居たという。
辞世の句。
「異方に 心ひくなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも」
訳:これからも当家は戦ばかりが続くであろうが大友家の敵に心を揺さぶられるな。
決して大恩に仇で返してはならない。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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