豊後もここまで落ちぶれたか☆ | げむおた街道をゆく

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耳川の戦いの後、筑後の国人たちは、

大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。

 

そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より、

一族の問註所鑑景との戦いにさいし、大友家に援軍要請が入る。

筑後回復の機は今とばかり、

宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に、

約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、

黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、

城方の反撃に悩まされていた。

 

豊後勢は、耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、

若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は、

立花道雪・高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。

 

両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、

立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り、即猫尾城攻略に取りかかる。
そしてこの猫尾城もすぐに落城。

城主・黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。

 

その後も。山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し、

柳川城で戦線は膠着するのだった。

そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。

その理由は、
「自分たちがどんだけ頑張っても、

手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ。」
と言うものであった。

そのまま豊後まで引き上げる田原勢。

 

さすがの道雪も、
「豊後もここまで落ちぶれたか・・・。」
と嘆くのであった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 雷切り・立花道雪、目次

 

 

 

 

 

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