関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、
そこから船で薩摩に下って島津を頼んだのだが、
このことが徳川家康の上聞に達し、
秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。
しかし島津はこれを承ると、
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。
このような事ですので、たとえご不審を被ることになろうとも、
その仰せを受けることはできません。」
と言上した。
ところが秀家はこれを知ると、
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。
速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。
ここで島津家は又、
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、
秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、
八丈島に流された。
この時、宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。
秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、
秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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