秀家遠島始末☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、

そこから船で薩摩に下って島津を頼んだのだが、

このことが徳川家康の上聞に達し、

秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。

しかし島津はこれを承ると、
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。

このような事ですので、たとえご不審を被ることになろうとも、

その仰せを受けることはできません。」
と言上した。

ところが秀家はこれを知ると、
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。

速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。

ここで島津家は又、
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、

秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、

八丈島に流された。

 

この時、宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。

秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、

秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 宇喜多騒動・宇喜多秀家、目次

 

 

 

 

 

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