慶長七年、島津忠恒は上洛し、関ヶ原での事を謝罪、
家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、
このような内談をした。
「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、
薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、
次回にも御訴訟申し上げたいのですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は、
「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」
と申した。
その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、
『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』
との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、
正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を差し上らせた。
慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、
山口勘兵衛の所まで案内した。
その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、
本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、
島津家よりの訴訟黙し難く思し召され、死罪を宥し、
駿州久能に召しおくべき。』
旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。
その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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