曽根内匠☆ | げむおた街道をゆく

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武田家に、『奥近習六人衆』と呼ばれる男たちがいた。

甘利左衛門、土屋右衛門、三枝勘解由、長坂源五郎、
そして曽根内匠と武藤喜兵衛のことである。

 

いずれも次代の武田家を担うと見込まれた男たちであり、

特に内匠と喜兵衛は今川領侵攻戦において、
物見・先鋒として衆目を驚かす活躍を見せ、

信玄に「内匠と喜兵衛は、わが両の眼」とまで言わしめた。

将来を期待された六人だったが、その後、それぞれ劇的な人生を歩んだ。

甘利左衛門は、要衝・上野箕輪城を任され出世頭となったが、

落馬事故がもとで早くに世を去った。

 

土屋右衛門と三枝勘解由は、長篠の露と消えた。

 

長坂源五郎は、義信事件に連座して死んだとも、

父・釣閑斎とともに勝頼の馬前で果てたともいう。

残る二人、駿河興国寺城を守っていた曽根内匠は、

武田崩れの際に徳川家康の軍門に下り、
兄たちを長篠で失った武藤喜兵衛は、

真田安房守昌幸と名乗り、実家の名跡を継いだ。

天正13年(1585)8月、

押し寄せる徳川軍を上田城で迎え撃った昌幸は、辛くもこれを撃退した。

徳川軍には武田旧臣も多く参加しており、

昌幸が、去って行くその背中を櫓上から見つめていると、

嫡男・信幸が報告にやって来た。

日ごろ冷静沈着な信幸も、思わぬ大勝に興奮しながら語った。

「何とか勝ちましたな!

それにしても、武田の旧臣どもの腰の抜けた様ときたら。
『信玄の両眼』などと言われし曽根内匠も、

今日は槍を引きずって逃げて行きましたぞ!」

「たわけ。
わしから見れば、内匠の逃げっぷりは、

お前たちの追撃の仕方よりも上手であったわい。
立場が逆なら、お前たちなんぞとっくに内匠に討たれておるわ。」

昌幸の言葉により熟練の士としての評判を保った内匠は、

のちに蒲生氏郷の懇請により蒲生家に仕え、
会津若松城の縄張り等にも参画し、奥州にもその名を轟かせたという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 表裏比興の者・真田昌幸、目次

 

 

 

 

 

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