かくて(天正壬午の乱の結果)、
信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、
同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は、
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、
一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、
互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に、安房守勢はとって返し攻めかけたことで、
室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して帰城した。
室賀は真田に屈することを無念に思い、
翌天正十二年六月、
家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より、
「何としても謀を以て真田を討つべし。」
と仰せ寄越された。
室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。
ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、
室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。
室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、
『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。
その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』
と、家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。
ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、
そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。
室賀は準備が整ったと思い、
家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、
この座にあった、
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、
長野、木村は次の間より太刀を抜いて乱入し、
室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、
三人共に項羽の勇を顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。
この時、桑名八之助は深手を負った。
室賀に於いては、この事を聞くと、
妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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