元亀二年の頃に成ると、
尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、
今は天下の扶助がなければ、
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、
或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。
山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、
夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、
このように申し渡した。
「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、
敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。
この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、
重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」
そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、
鹿の角の前立を指し挙げ、
「矢留である!」
と呼びかけ、ただ一人打ち出る。
甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った。
「山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、
降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、
後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」
そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、
陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を討って大賞を得んと、
我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、
とうと青眼をむけ大きな怒りを含み、
「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。
しばらく有って、
「大将見参すべし、これは御入り候へ。」
と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、
両手を振りほどくと、
左右の手に取り付いていた勇士たち三十人は将棋倒しに倒れ、
躓き伏せ、赤面して立った。
鹿介は、吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。
この時、駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て、
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。
御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。
私は正兵を守り奇を用いない。
降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」
そう真心を以て語りかけ、
鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。
鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、
蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、
これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし。」
と評定で決した。
鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、
勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、
伯州境にて彼の国の関守・杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、
怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、
この飛脚は白状し、笠の緒の中から、
鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。
「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、
またどのような世の変転が起こるかわからない。」
と、急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、
またかねてより妻子を、
婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る京都へ上らせ置いており、
直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、
隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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