月山富田城攻略失敗☆ | げむおた街道をゆく

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永禄十二年、

尼子再興軍により山陰道は悉く翻り、山中鹿介は石州に働き入り、

黒岩、戸屋ノ尾の二城を築くと、その軍勢は四万余騎となって、

雲州の月山富田城を囲んだ。

 

米原平内左衛門尉広綱は、

今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、

その勢三千余騎にて高瀬の城に立て籠もった。

しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、

またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、

空しく月を移り日を暮らした。

年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、

春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。

ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた

『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、

継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、

その死後は九州も悉く翻えって大江羽林(毛利元就)に与力し、

備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、

見方は一騎も無くなった。

敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、

近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』

尼子勢はこれを聞くと、

「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、

防陽の軍勢が如何蘇長したとしても、

そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」

と疑義していた。

そんな中、同月十二日、

毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、

多久和の城へ押し寄せ、四方八方から騒動した。

 

多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、

僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、

ただ追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、

そのような状況下で、

どうして城を出て合戦をすることが出来るだろうかと議して、

同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。

この時、何者かが書いた落書が立った

 『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』

多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。

この自体に尼子勢は、
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、

大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは難しい。」

と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。

この状況に山中鹿介幸盛は、

「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」

と、富部の城に引き退き、月山富田城の囲みを解いた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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