今年(永禄十二年)の、
尼子再興軍による山陰道の動乱は、山中鹿介幸盛の仕業であると、
吉川元春、小早川隆景は忿怒し安からず、
「誰か、毛利八万余騎の軍中、力抜群なる勇者は無きか、
あの鹿毛を討ち取れば、懸賞はその望みに任せる。」
と触れ流したが、然し乍ら山中鹿介は日本無双の勇者にて、
肢体の逞しき事、その長弓は尺を越え、矢束十八束を引き、
力は十人力を過ぎるほどであった。
天文十四年八月十五日、山中鹿介は雲州鰐淵山の麓、
武蔵坊弁慶の育った屋敷にて生まれた。
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った。
時の人は彼を『今弁慶』と呼んで恐れた。
今年、彼は漸く二十六歳で、五十六度の鑓を合わせ、
謀は子房(張良)を呑み、武威は項王を欺く程の勇者であった。
そのため、前の尼子右衛門督晴久は、
その四万余騎の群下の中より大勇十騎を選び出し、その第一の定め初めは、
当時山中甚次郎と名乗っていた彼であった。
彼は兄甚太郎の鹿の前立の兜を譲られ、
それ以降、武功はさらに世に響き名は高く、
人呼んで『鹿介』と号した。
これほど名高く鬼神に勝る幸盛を誰が討ち取れるだろうかと、
皆舌を震わせて嘯いた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!