天文19年9月9日に、
駿河の今川義元より、四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が、
甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、
今川義元に頼まれた使いであった。
氏康から義元への依頼は、このようなものであった。
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。
しかれば、今年中には有無の一戦を仕る所存です。
もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、
関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、
この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。
我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、
我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。
ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、
義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても、
義元公が申し入れれば合点するでしょう。」
このように北条氏康は、今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、
武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年後に、仔細が在って上野に出陣した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!