主君、斉藤龍興の暗君ぶりを諌めるため、
城内に潜ませた手勢わずか十数名で、
美濃稲葉山城を乗っ取ったと言われる竹中半兵衛。
織田信長に城を渡すよう打診されるもコレを拒否。
龍興に反省の色が見えると速やかに城を返却。
主君に弓を引いた責任を取って、
隠居してしまうという鮮やかな進退。
……通常語られる「半兵衛の稲葉山城乗っ取り」と言えばこんな所だろう。
しかし、ある人物の手紙によると少々話が変わってくる。
「金華山城(稲葉山城)は竹中遠州の子、
半兵衛が二月六日の白昼に奪い取り、
安藤伊賀守と二人で美濃一国を領有した。
太守(龍興)らは一戦した後退散し、鵜飼、揖斐の辺りに城を構え、
にらみ合いを続けている。
美濃の中で義理も恥も知らない連中は皆、
竹中の下へと馳せ参じた。」
厳しい口調で半兵衛を非難するこの手紙の送り主は美濃崇福寺の住職、
あの快川紹喜である。
半兵衛が奇策を使って一戦もせずに城を乗っ取ったのではない事、
美濃の諸将が彼の許に降り、
龍興に十分対抗出来る勢力を築き上げていた事がわかる。
安藤、竹中両名による町や寺社への禁制はいくつかだされているが、
その内の一つは七月二十九日付けである。
半年近くも占領が続いていたのである。
そんな中、
快川は以前住職を務めた甲斐国恵林寺の住職にもう一度ついてくれないか、
という武田信玄からの打診を受ける。
反竹中の立場に立っていた快川はこれを好機と、
自らが仲介となって龍興と信玄の同盟を纏め上げる。
手紙には美濃からの使僧が寒い中に甲斐の快川を訪ねたとあるので、
同盟成立は同年の冬の様だ。
半兵衛の反乱が冬まで続いていたのかは不明であるが、
龍興のバックに信玄がつくかも、という噂だけでも、
美濃のパワーバランスを崩すのに十分だったのだろう。
竹中半兵衛は近江に逃げ、反乱は終息。
しかしそれから幾許もしない内に、
織田信長により安藤伊賀守を筆頭にする西美濃衆の反乱を招き、
斉藤義興は美濃を追われるコトとなる。
しかしこれなら信長も楽だったろうね。
この時半兵衛についた連中を中心に、
調略を仕掛けりゃよかったんだもん。
つか、快川の修行時代、
同じ寺で修行していた一鉄さんはどっちについたんだろう?
語られてるより生々しく現実的な半兵衛の稲葉山城乗っ取りの実態。
竹中半兵衛の悪い話なのか、それを阻止した快川の良い話なのか。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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