竹中半兵衛が、斎藤龍興に奉公して稲葉山にあった時、
半兵衛と同じように使われた者があり、
ある時、半兵衛には巣鷹の仔が与えられ、
このもう一人にはコノリ(ハイタカの小型の雄)が与えられた。
ところが、龍興は一旦半兵衛に与えた巣鷹の仔を取り返して相手に与え、コノリの方を再度
半兵衛に与えた。
この事に半兵衛は強く憤り、稲葉山から出奔すべく計画を立てた。
彼は同士の侍18人と語らい、番つづらにそれぞれ具足を入れさせ、
当番として場内に入ると、切って廻り、そのまま出奔した。
この時、稲葉山城内の一人が半兵衛に切りかかったが、半兵衛も刀を抜いて切り込み、
向こうの刀を柄で受け止めた。
そこで刀に打たれたために半兵衛の刀が抜けたが、
この抜けた刃が相手を仕留めた。
彼も幼少より剣術を習っていたが、
実戦を行ったのはこの時が初めてであったという。
半兵衛19才の時の事だそうだ。
彼が若輩の頃、人々から『鼻たらし』と嘲られていたが、
この時、自ら手鼻をかんで、
「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」
と言ったという。
半兵衛は一生の間、常に数珠をつまぐり、
「美濃の国には誰もない。誰もない。」
とばかり言っていたそうだ。
この半兵衛、元は美濃赤坂の商人、あかねやの子であり、
龍興の元から出奔する頃までは父も存命し、
至って裕福な者であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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