天正14年(1586)12月、豊臣秀吉の九州役の中でのこと。
原田五郎右衛門尉信種は、筑前国怡土郡、高祖城の城主であったが、
豊臣秀吉に従わなかった。
ために小早川隆景は、これを討つためその兵を出撃させ、
高祖城へと向かった。
この時、黒田官兵衛より、その家臣・久野四郎兵衛などが目付けとして派遣された。
原田は田舎侍であり、
近隣の城持ちとの小競り合いで度々勝利したことを自慢し、
人数千、二千を大軍だと思い、
豊臣秀吉の武威の盛んなるを知らなかった。
また上方の軍勢など、
例え大軍であっても公家や長袖(僧侶)のような物であり、
何ほどのこともないと侮って、
敵の来る前に、高祖城の前方にある大門河原にでて勢揃いをさせた。
その有り様といえば、ちぎれた鎧を着て、
縄の手綱を付けた馬に乗る侍が数十騎も居ないような
ものであった。
そんな彼らが、上方勢の来るのを待ち構えていたが、
寄せ手の兵は早良郡より日向山を越えて、
高祖城を目指して押しかけてくる。
原田はこの軍勢を見て、思った以上の大軍であったため、
これと対決するのは難しいと思い、先ずは籠城して、
薩摩からの後詰めが来るのを待とうと、軍勢を城内に入らせた。
このようにして、小早川隆景の軍勢は抵抗もなく、
高祖城の城下まで押し寄せたが、
鴾毛の馬に乗った武者が、城下に一番乗りをした。
小早川隆景がはるかにこれを見て、
「あれは誰か。」と問うと、黒田官兵衛の家臣が、
「あれは久野四郎兵衛です」と答えた。
この様に城下に小早川の兵が押し寄せる中、
原田五郎右衛門尉は本丸の上から東の方を見渡すと、
敵はなおも押し寄せると見え、博多の西、早良郡より城の麓まで、
3,4里の間を大勢が続き、
旗、指物、馬物の具をきらめかせて、隙間なく行軍していた。
原田はこれに肝をつぶし、評議にも及ばず降参を乞うた。
このため高祖城は城攻めをすることなく落ちた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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