元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は、新高山城に変わる新たな居城・三原城の完成に伴い、
新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催した。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。
備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)。
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、
尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し、
活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、
瞬時に敵数人を突き倒して、
形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。
この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に、
古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。
酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、
隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、
首を失った胴体は刀を抜いて立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。
豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、
唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して、
本郷城に急を知らせた。
城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、
隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、自らの城下に持ち帰り葬った。
だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、
古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、
口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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