山形県朝日町の八ツ沼には、かつて八ツ沼城という天険の要害があった。
戦国時代に敦賀城主の原甲斐(原忠重)が戦に敗れて後、
出羽に逃れて八ツ沼の地に入った。
八ツ沼城の東方には鳥屋ヶ森の城館があり、
木曾義仲の末裔と言われる鳥谷ヶ森城主の幾志美作(岸義満)には、
弥生姫という美しい娘がいた。
原忠重には、美濃守半兵衛(原兼道)という嫡男があり、
果沼の薬師祭に偶然弥生姫と兼道の二人が出会い、
互いを好くようになった。
しかしある日、兼道が弥生姫を八ツ沼の春日沼に誘って逢瀬を楽しんでいたところ、
隣接地の和合領主和合但馬(和合秋広)が弥生姫に一目惚れし、
姫に結婚を迫ったが、岸義満は姫を原兼道に嫁がせると断りを入れた。
和合秋広は、弥生姫を諦められずに、
祝儀の日に宮宿で伊達の久保姫掠奪の例に倣いこれを奪おうとしたが、
原勢の護衛に返り討ちに遭い、
私怨から山形の最上義光に、
「岸と原が共謀し、近く山形攻めを画策している。」
と偽りの書状を持たせた密使を送った。
永禄8(1565)年8月、和合秋広の手引により、最上義光は八ツ沼攻めを決意。
城に鹿垣や逆茂木を配し、岸・原勢は、
小関加左衛門、飯沼源八や客僧将羽黒弁寛、白田某、鈴木、清野、
といった者たちが善戦したが、
最上軍の大軍の猛攻の前に城は数日で落ちた。
兼道と弥生姫は落城を前に、城の裏手の春日沼に身を投げ、
今でも二人は湖底で夫婦として暮らしていると伝えられている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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