天正12(1584)年6月7日、病を装い、
「最上家の後事を託したい。」
と、谷地に使いを出した最上義光は、同月12日に山形城内で白鳥長久の誘殺に成功。
日を置かず3000の兵をもって蔵増・溝延方面から寒河江北方の谷地に侵攻し、
わずかな間に谷地城を占拠した。
最上軍の電撃戦に寒河江領主・大江尭元は、
谷地の白鳥旧臣らと寒河江国人の連合軍2000人をかき集めたが、
すでに旗下の一族衆の何人かが氏家守棟の工作により、
敵方である最上軍へと寝返っていた。
義光自らが先陣を切り、
寒河江城の出城である寒河江東方の新田楯・本楯・高屋楯を攻撃。
大将を先頭に鐵の人波が逆茂木や土塀を乗り越え、各城館を呑み込んだ。
寒河江城の喉元を抑えられた大江軍は、
勇将羽柴勘十郎が氏家守棟の庶子の氏家三之助を討ち取る等の戦果を挙げたが、
勘十郎も最上軍の策に嵌まり銃撃により落命し、
月の変わらぬ6月末に、寒河江領主・大江尭元は自害し果て、
名門大江家は最上軍によって滅ぼされた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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