政宗の七男・宗高は、7歳にして柴田刈田両郡三万石(現:宮城県柴田郡村田町)を領する
村田城主となった。
1623年に蔵王の刈田岳が噴火し、翌年になっても噴火はおさまらず、
領地に多大な被害を及ぼした。
思案した政宗は、宗高に中国から渡ってきた易者・王翼とともに、
祈祷を行うよう命じた。
宗高は王翼とふたり刈田岳に登って、火口近くに祭壇を設け、
青竹に自分の息を吹き込んで、埋めた。
この行為は、宗高自身の命を天に捧げるという意味である。
すると不思議なことに、噴煙活動が次第に鎮まり、
夜に入ると噴火活動が完全に止まったのである。
奇跡を起こした名君として、宗高は領民から一層慕われることとなった。
しかし1626年、政宗と連れ立って京都に上って官位を受領後、
疱瘡にかかって20歳の若さで亡くなった。
大願成就したために、天が宗高を連れて行ったのだと噂された。
領地ではこの若き君主を惜しみ、今も命日に、
「宗高公まつり花火大会」が開催されている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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