かつて甲州の小山田備中(虎満)は、こう言ったそうだ。
「人々が不和であるのを取り扱い和解させる場合は、
すこし身分に高下の差があったとしても、
その時ばかりは高下の差別を付けずに取り扱うのが第一の心得である。
和解の盃も、同様のものを2つ出し、
同様に飲ませ同様に収めさせるべきである。」
さて、寛永の頃、内藤左馬之助長政が邸宅に伊達政宗を招いた時、
兼松又四郎もこの席にあった。
ここで政宗が用事があり、立ち上がって兼松の傍を通った時、
袴の裾が兼松の膝にかかった。
兼松はこれに怒り、扇で政宗の袴腰を打った。
ところが、これがどう誤って伝わったのか、政宗の供の者達は、
『主人政宗が兼松又四郎に討たれた。』と聞き、
彼らが一斉に押しかけ騒動となった。
また供の者から伊達屋敷にもそのこと注進され、屋敷より多数押し寄せ、
内藤も兼松も討ち取らんと玄関に押し寄せた。
しかし、ここで政宗が自身玄関まで出て彼らを制した。
このため駆けつけた者達も安心し帰っていった。
こうして騒ぎも一段落ついた所で、
内藤長政は政宗と兼松を和解させようと様々に取り扱いをし、
双方も承知して、和解のための一席に出た。
内藤が「盃を」と言うと、小姓は盃を先ず政宗に出した。
政宗は盃を受けて兼松に送る。
ところが兼松はその盃を取ると、たちまち打ち砕いてしまった。
すわ和解の事破れたりと一席の者達どよめいたが、
内藤は気が付き、新しい盃を二つ持ってきて双方の前に備えた。
これによって政宗、兼松は同様に盃をあげ、和議も調った。
それから盃が追々廻って、再び兼松の前に来た時、政宗はつと立って、
「肴をいたそう!」
と、曽我を舞いながら、
「腹が癒ゆるなら打てや打てや犬坊」
と歌った。
この姿に、「さすがは政宗だ。」と、一座の人々は感じ入ったという。
また、兼松又四郎も、小身でありながら大身の伊達政宗に対し、
少しも遅れを取らなかった勇士であると、人々賞したそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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