伊達政宗の長子・秀宗が宇和島領を与えられると、
政宗からは、秀宗に藩惣奉行(筆頭重臣)として、山家公頼が付けられた。
公頼は初期藩政の構築のみならず、
仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、
仙台の政宗に宇和島藩10万石のうち3万石を隠居料として割くことで、
宗家からの借財返済を繰り延べたり、
幕府の大坂城修復事業に参加したりした。
だが、こうした行為が、秀宗や秀宗派重臣の桜田元親ら他の重臣らとの対立を招く。
秀宗、「公頼、お前は宇和島藩の人間だよな?」
公頼 「はい。私は宇和島藩の人間であると共に、
伊達の人間である事を誇りに感じております。
借りたものを返す、やる事をやるのが正しい人間の在り方と思います。」
秀宗 「・・・わかった、もういい・・・。」
元和6年6月29日、秀宗の命を受けた家臣達が山家邸を襲撃、
翌未明に公頼は家族共々討ち取られた。
これを知った政宗が秀宗を幕府に訴えた。
「もう、大切な家臣貸し出してるのに勝手に殺すなんて息子でもなんでもない。
生きた公頼を返せ。それが出来ないなら宇和島なんていらないから幕府に返しちゃう。」
言われた幕府も訴えられた秀宗も迷惑である。
その後、幕府の取り成しもあり、政宗と秀宗の仲は改善された様ではあるが、
殺された公頼と仲介を押し付けられた幕府にとっては迷惑な話であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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