ある時(寛永3年3月14日)、伊達政宗は、
紀伊大納言・徳川頼宣の饗宴に招かれた。
御相伴・御相客は、板倉内膳(重昌)殿、柳生但馬守(宗矩)殿、内藤外記殿、
その他、多数がおられた。
形式通りに酒宴も過ぎて、政宗が帰宅するという時、
頼宣もそれを玄関まで見送りに出た。
政宗は振り返り、紀州屋敷の大広間に、老若がひしと膝を組んで詰めるほど、
紀州家の家臣たちが伺候しているのを見て、頼宣に語った。
「さてもさても、申すも愚かなことですが、あなたの歴々たる家中の者達の多さに、
目を驚かせてしまいました。これだけの内衆を持たれて、
只今の若上様(家光)への御奉公は、少しも抜かりがない事でしょう。
これだけの人数があれば、たとえ今から大国に攻め入っても、
お手柄の御勝利は間違いないでしょう。
そうそう、ついでのことですが、申し上げます。
もし紀州において、御国の境目論(国境紛争)などがありましたら、
早々に私にお伝え下さい。
我が手勢を二千も三千も召し連れ紀州まで罷り越し、
少しもあなたには手をかけさせず、
この年寄りが参って、いかようにも取り扱いいたしましょう。
と、このように申し上げましたが、
もしあなたが、今の若上様を蔑ろにするようであれば、かく言うこの年寄り、
日ごろ国元に秘蔵し差し置いてある郎党共を召し連れて、
真っ先に紀州に攻め入ります。
…左様にお心得候へ。」
人々はこれを聞いて、
「言い難いことを、何とはっきりというのか。」
と感嘆した。
後に、この場に居た板倉重昌からこのことを聞いた徳川家光は、
殊の外機嫌が良かった、と、
これは後に板倉殿自身が語られたことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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