大坂夏の陣の際、徳川方として参戦しつつ、全滅した隊があった。
大将の名は神保相茂、大和七千石を領する小大名であった。
その全滅の理由は、なんと味方のはずの伊達政宗の軍から、
一斉射撃を受けたためであった。
島津家の記録には、
「この度の戦いにて、伊達政宗殿は味方を撃ち、
全滅させてしまった。
家康公や諸侯の者は、伊達殿のなんと卑怯な振る舞いかと笑いものにした。
討たれたのは神保相茂殿である。
彼の従者二百七十名が討ち死にしたことは、皆が知っている。」
戦後、この事を幕閣から追求されると政宗は弁明した。
「確かに味方と知って撃ったのは事実です。
しかし伊達家の軍法には、敵、味方の差別は無い。
神保の隊が我が隊に逃げ込み、我が隊も危うくなったので、
仕方なく討ち取ったまでの事。
だからこそ、我が隊はその後に大手柄をたてて、ご奉公したのです。」
だが神保隊は逃げていたのではなく、休息していた所を、
伊達隊が進軍の妨げとして撃払ったのが事実であり、
その場にいた複数の隊からも証言されていた。
あまりにも理不尽な弁明だが、
六十万石余を領する伊達家を刺激するのは好ましくないと、
幕府は判断し不問とした。
当主と家臣のほとんどを失った神保家は、ほぼ改易の扱いとなるが、
さすがに不憫に思った幕閣達の働きにより、
相茂の子茂明に父の旧領大和七千石が後に与えられた。
伊達政宗の栄光の影に、
犠牲になった神保家二百七十名余の惨死があった事を、
忘れてはならない。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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