神保相茂☆ | げむおた街道をゆく

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大坂夏の陣の際、徳川方として参戦しつつ、全滅した隊があった。
 

大将の名は神保相茂、大和七千石を領する小大名であった。
 

その全滅の理由は、なんと味方のはずの伊達政宗の軍から、

一斉射撃を受けたためであった。
 

島津家の記録には、

「この度の戦いにて、伊達政宗殿は味方を撃ち、
全滅させてしまった。

家康公や諸侯の者は、伊達殿のなんと卑怯な振る舞いかと笑いものにした。

討たれたのは神保相茂殿である。
彼の従者二百七十名が討ち死にしたことは、皆が知っている。」
 

戦後、この事を幕閣から追求されると政宗は弁明した。
「確かに味方と知って撃ったのは事実です。

しかし伊達家の軍法には、敵、味方の差別は無い。

神保の隊が我が隊に逃げ込み、我が隊も危うくなったので、

仕方なく討ち取ったまでの事。

だからこそ、我が隊はその後に大手柄をたてて、ご奉公したのです。」
 

だが神保隊は逃げていたのではなく、休息していた所を、

伊達隊が進軍の妨げとして撃払ったのが事実であり、

その場にいた複数の隊からも証言されていた。
 

あまりにも理不尽な弁明だが、

六十万石余を領する伊達家を刺激するのは好ましくないと、

幕府は判断し不問とした。
 

当主と家臣のほとんどを失った神保家は、ほぼ改易の扱いとなるが、
さすがに不憫に思った幕閣達の働きにより、

相茂の子茂明に父の旧領大和七千石が後に与えられた。
 

伊達政宗の栄光の影に、

犠牲になった神保家二百七十名余の惨死があった事を、

忘れてはならない。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 独眼竜政宗・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!