大坂での合戦の折、
伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内、秋保掃部という者、
両人が討ち死にに及んだ。
帰陣後、政宗は、この事に憤慨した。
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、
組の奴原が不覚と言うべきである!
百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」
この時、
「両人の討ち死には私の責任です。」
と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った。
「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。
『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか。』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、
秋保が身を乗り出し、間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。
しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、
討ち死にしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。
この事は私の誤りのためですから、
皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」
これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず、
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。
給人衆とは、伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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