秀次事件、秀吉に呼び出された政宗☆ | げむおた街道をゆく

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「関白秀次が高野山にて自害した時のこと(文禄4年(1595)秀次事件)である。
太閤殿下(秀吉)に、私が殿下に背こうとしていると讒言するものがあったため、

私は十騎ばかりで急ぎ大坂へと上った。
枚方まで至った時に、石田(三成)、富田(一白)、施薬院(全宗)が御使として来て、

『其の方は関白ととりわけ睦まじい間柄であったこと、隠れない事実である。
その仔細を正直に申せ。』

との事である。

 

私は畏まって、

『いかにも秀次公には親しくしていました、されども、

太閤殿下の天下無双の御眼鏡であってさえ、
思いの外に違われたからこそ、このような事態になったのではありませんか!
まして私は片目であり、見損なうのは当然のことだと思われませんか!?

秀次公は殿下の御子として世を譲るのだと聞いていたからこそ、私も取り入ったのです。
ただ殿下をお頼みしたいとそうしたのです。
それを過ちであるとお考えに成るのなら、仕方ありません。

どうぞ私の首を刎ねて下さい。』

これを聞いた施薬院は慌てて、

『そのような反論をどうして殿下に申次できるでしょうか。取り成しすることもできません。』

私は施薬院を睨みつけて怒鳴った。

『おぬしは病人を扱う事こそ知っているのだろうが、

武士の道をどうやって知れようか!
ただ此の侭に申せ!』

私の言葉に3人はどうにも出来ず、帰っていった。
翌日、太閤殿下より富田左近(一白)が遣わされて、

『翌日、(大阪城)山里曲輪にて御茶を賜るので、かならず来るように。』

と伝えられた。

 

その日になって私は、ただ二騎を引き連れて大坂に行くと、
富田左近の家来の侍一人が案内として出てきた。

それを先に立たせて御庭に行ったが、
樹木が隙間なく立っている所に到って、

その案内の侍が、どこに行ったのか影も形もなかった。

そういうことか、私はここで討ち殺されるのだ。

そう心を定めていると、茶頭のような姿をしたものがやって来て、

 

『刀脇差を出して頂きたい。』

と言う。

『なに!?侍の刀をよこせとはどういうことだ!?』

と叫んだ所で、太閤殿下が木陰より歩み出て、

『和尚、そちらに出ているのか?』

と、例の大きな声で言われたので、私は刀をその茶頭に渡して殿下のもとに進むと、
『こちらに来い。』

と茶室に招き入れられ、手ずからの茶を頂き、何事も無く暇を許されたのだ。」

秀次事件の後、秀吉に呼び出された政宗についての逸話である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 独眼竜政宗・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!