関白秀次の謀反☆ | げむおた街道をゆく

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文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、

伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
 

豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、

「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は、この時に極まりました。

もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません。」

と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。

暫くして彼等は、

「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」

と申し上げると、家康は大声で言った。

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、

後ろの弱きゆえに、そのように狼狽え付くのだ。

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、

よく分別あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、

細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。

また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし。」

と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、

門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、

今にも打ち出しそうな有様であった。

御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した。

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。

人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は無いと、

今日こそ思い知っております。

私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても異議は申しません。

況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。

『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が有るべきか、

速やかにここにて腹を斬られ、

我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません。』

と言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。

私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、

家臣たちは一向に同心せず、

あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、

数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
 

このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、

秀吉の傍に在った家康も申し上げた。

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、

上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに於いては、

私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、

何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、

家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、

政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、

彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、

秀吉は、

「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ。」

として、国替えのこと沙汰無くなりその事止み、

その後勘当も免されたという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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