葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。
ここで秀吉より派遣された浅野長政と対面した。
長政は「今回の働きは大変な誉れでした。」
と氏郷を讃え、今後のことを相談し、
先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、
今回の事態に至った経過を申し上げると決まった。
去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも、
会津に下すとの事であった。
このような所に、何を思ったのか伊達政宗が、
「私もあなた方と相伴して上洛したい。」
との旨を二本松に伝えてきた。
両人は、「一段然るべし。」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。
氏郷は、「この上は必要ない。」と、政宗からの人質を返した。
しかし、この時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。
死に装束の出で立ちで、
金箔を貼った磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。
政宗の後に氏郷も出立し、
上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、
並びに政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、
葛西大崎一揆を政宗が扇動した証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に、
「今度の手柄に勝ることはない。」
と激賞し、
「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」
と語りかけた。
その後、政宗への尋問が行われたが、
政宗は、
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、
偽判をしてしまったのでしょう。」
と、申し上げた。
これを聞いた人々はみな、「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)。」と言ったが、
政宗は、
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ。」
と請うてこれを見ると、
「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、
これには、その目がありません。本物の判には目が付いています!」
そう陳述した。
これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、
それらには全て、確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。
これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、
政宗がこのように京都にいる以上おかしな動きはできないと、
再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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