天正十九年(1591)、夏。
葛西大崎一揆鎮圧を命じられた伊達政宗は、
容赦ない掃討戦を行い一揆勢を追い詰めていった。
七月四日、ついに一揆勢は政宗の前に降伏した。
政宗はおもだった者たちを須江山にうつした。
政宗はこのあと、豊臣秀次に一揆首謀者の助命を嘆願したともされる。
しかし、伊達成実『政宗記』によれば、
「一揆勢は要害にたてこもり、
土地の者とも通じており打ち果たすことは難しいのです。
そこで一計を案じ、ひとかたまりにして山に集めておきました。
ご命令とあれば打ち果たしますが、いかがしますか。」
と秀次に申し上げたという。
秀次は討つよう命令をくだした。
かくして討たれた二十人あまりの首は、塩漬けにされ京都に送られた。
この犠牲者数だが、
郷土史家の研究だと最大八十人前後という説もあるそうだ。
政宗が一揆を煽っていたわけだし、口封じをしなければいけなかったのだろうが、
助命すると言っておきながら、
相手をだまし討ちにした悪い話ではある。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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