宮崎城は、東と南が川に面した断崖上にある堅固な山城であり、
そこに籠るは、旧大崎家中でも武闘派で知られた笠原党で、
旧主・大崎義隆の子も迎えて、いよいよ士気も高まっていた。
これに対し政宗は降伏を促すが、士気の高い笠原党は拒否。
一揆への関与が疑われていた政宗は、早々に宮崎城に攻め寄せ銃撃戦が始まり、
断崖上で有利な宮崎勢は休み無く撃ちかけた。
撃ち続ければ当然に銃身が熱をもち撃てなくなるが、
笠原党を率いる嫡流の宮崎隆親は、
「鉄砲焼ければスズメのはかま(カタバミ)という、草を揉み、
それで拭えば冷めていつも通りだ。」
と、兵を励ました。
そんな勢いで撃ちかけられた伊達勢も無事ではすまない。
政宗は狙撃されたが、馬取りに当たり寸でのところで難を逃れた。
これに怒った政宗は、
「大将を狙うとは! 目に物見せてやる!」
周囲の兵を励ますと、城の東の沢に向かって一文字に突撃したが、
跡に続いた家臣に、
「大将の深入りは無益です! もし怪我したらどうするんですか!?」
と、諌められた。
このように膠着した戦況を打開しようとしたのが、
歴戦の知将・浜田伊豆景隆である。
景隆は大手口の水掘を切って攻め寄せようと、土塁に取り付き指揮を執った。
これを見た政宗は、
「浜田が深入りした、危ない!」
と呼びかけたが、景隆は城中より狙撃されて弾が鎧を貫き落馬してしまった。
従者達は介抱しながら後方に引いたが、傷は致命傷だった。
景隆は、
「我、主の為に死ぬのは武士の常だ。急所に当たったので死は間違いない。
だが、敵が果てるのを見ずして死ぬのは口惜しい。
今、死を遂げたなら、鎧を帯びたまま城と真向かうように立った姿で埋めよ。」
と、言ったかと思うと息を引き取った。
景隆は遺言通りに鎧を着て立った姿で埋葬されて、墓は現在も宮崎の地にある。
また、その時に着ていた血染めの鎧下着が仙台市博物館に保管されている。
これに奮いたったのは、良きライバル関係にあった原田宗時と後藤信康である。
信康は夜中に抜け駆けして城中に侵入したのだが、
「随分と早駆けだな。」
と声を掛けられた。
振り返れば、なんと宗時も抜け駆けして城内に侵入していたのである。
二人は門を破り味方を引き入れ、遂に宮崎城は落城したのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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