人取橋の戦い・その夜☆ | げむおた街道をゆく

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天正13年(1586)11月、

伊達政宗と、佐竹・会津諸侯連合の戦った、いわゆる人取橋の戦いでの事である。

17日、伊達軍を一方的に打ち破り追い詰めた佐竹・会津諸侯連合軍は、

日暮れにより追撃を止めたものの、
翌早朝より伊達本営へ押し寄せ、勝負を決するべしと決議し、

その作戦も綿密に立てられた。

が、その夜、信じられない事が起きて、合戦を行うこともなく、

全軍は未明から撤退を始め、皆本国へと帰還した。
 

それは、このような理由からであった。

今回の合戦に当たり、佐竹より小野崎義昌(佐竹義重叔父)という者を大将として、

大軍を派遣した。
 

ところでこの小野崎義昌という者は、

常日頃より人に超えて馬を労る人物であったのだが、

特に明日は大事の敵に逢う馬であるからと、陣屋の前に下郎を呼んで、

自ら立ち会って馬の足など洗わせていたのだが、
この時心に叶わぬことがあり、下郎の一人を、

木沓を履いたまま蹴り倒した。

蹴り倒された者も、下郎ながら短気であり、蹴った足を引く前に、

刀を抜きざま、義昌の心臓を刺し貫いた。

無残なことに義昌は二の息もなく死んだ。

陣中は、これは何事かと大騒ぎになり、やがて事の仔細が各陣営に伝えられると、

会津諸侯の面々も、

『これはどうするべきか。明日の合戦で伊達との勝負を決しようと強く決意していたが、

それはそもそも、佐竹勢を頼もしく思っていたためだ。
それなのに大将の義昌殿がこのような事になった以上、

佐竹勢の雑兵達は、この夜のうちにも本国に向けて帰っていくだろう。

そうなっては、残る我等が軍勢だけで雌雄を決する戦いが出来るとは思えない。
そもそもこんな事件が起こり気後れした軍勢で合戦を行なっては、

とても我等に利があるとは考えられない。
ここは一先ず黒川に引き返し、体制を立て直すことこそ、

後日の軍の利もあるというものだ。』

この様な結論にいたり、これを格陣営に知らせ合い、

まだ夜中のうちから本国に向けて退却をしたのである。


一方、伊達政宗の軍は、そのような事など夢にも思わず、

本宮に置いてあった物見から、
『一体どういうわけか、会津勢が合戦を仕掛けてくる様子はなく、

それどころか徐々に撤退をしています!』
との急報が入り、一体何が起こっているのかまるで解らず、

追々物見を出して状況を確認すると、
やはり敵勢は、どういうわけか撤退しているというのが明らかとなり、

そこで本宮まで移動した。

伊達政宗が絶体絶命となった、人取橋の戦いについての逸話である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 独眼竜政宗・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!