大浦為信にとって、浪岡御所は目の上のこぶであった。
浪岡御所は南部地方はもとより、
津軽地方や出羽北部からも尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が、遊興にふけっているのに目をつけた。
浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、
為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、
「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか。」
と尋ねた。
為信は、
「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ。」
ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、
汝らはなぜ生業につかないのか。」
と聞いた。
すると博徒らは、
「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。
しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、
皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです。」
と答えた。
その言葉を待っていた為信は、
「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、
民を救うことを本意にしている。
ひとつ、浪岡を征伐してやろう。
その時は汝らも善をはげめ。
そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。
近いうちに浪岡を攻めるから、
汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ。」
大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、
天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、
兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、
大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが、
「御所が襲われることはない。」
と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。
この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが、
「大浦勢が来た!」
と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、
「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください。」
と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、
駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は、
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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