天正十六年(1588)八月、
出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、
上杉軍の本庄繁長は、東禅寺義長を討ち取った。
この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した。
「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、
屋形(義長)の討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、
本庄を討って再び庄内の地を踏み、本意を達しようと思ったからである。
しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし。」
そう言って取って返した。
その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしていた。
右馬頭は、旗も前立も相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、
右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、
敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば、
「越前守(本庄繁長)被官なり! 大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、
「高名致し候!」
と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて、
「東禅寺右馬頭!」
と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、
割れよ砕けよと二打打った。
しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、
兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ、
さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、
右馬頭を跳ね返し、脇より立ち会い、
右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。
本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、
凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。
右馬頭の刀は相州正宗であった。
これを本庄は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、
太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、
『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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