慶長十九年、
大阪御陣の前、豊臣秀頼より高屋七兵衛と申す者が薩摩に差し下され、
島津家久(忠恒)に味方を頼むとの内容の、九月二十三日の日付の書状と、
長銘正宗の脇差を相添えて到来した。
家久はこの書札と、それに「同心仕らず。」とした。
返書の文案を添えて、京の板倉伊賀守勝重まで差し上げ、
家康、秀忠が御出陣なさる場合は、
必ず馳せ参ると、伺い申した所、
その返事に、
「軍勢を相催しての上洛は、状況次第で致すべきです。
たとえ両御所が出馬されたとしても、
下知が有る迄罷り上がってはいけません。」
と、伊賀守は申し越して来たため、家久は軍勢を揃えた上で一報を待った。
その後、秀頼より北川勝左衛門と申す者を差し下し、書札を以て、
是非に頼み入るという旨を申し来たが、
家久は、
「前の返事で申し遣わした通り、同心仕らず。重ねて使札を送ってこないように。」
と申し返した所、秀頼よりまた、武井理兵衛と申す者を差し下して来たため、
家久は、この理兵衛を絡め捕り、秀頼よりの書状を添えて、
山口駿河守直友方まで差し上げた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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