玉川義則の忠義☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の戦いの後、

薩摩に逃れた宇喜多秀家は、徳川と島津家久(忠恒)らの交渉により、
死一等減じて八丈島に流罪となった。

 

薩摩を去る日、秀家は家久に感謝しつつ言った。
「落人の身を今日まで養っていただき、感謝する術が無い。

私には二人の家臣がいる。
玉川義則と山田半助と言い、節義ある士だ。

この二人を、あなたに仕えさせてほしい。」
家久は了承し、二人は島津の家臣となった。

このうち玉川が馬術・弓術の達人と聞いた家久は、

その馬術を試すことにした。
馬術披露の当日、三原重庸が玉川のために引いて来た馬を見て、

家久は激怒した。
「それは誰も乗りこなせぬ悍馬ではないか!うぬら玉川を新参と侮り、辱めんとするか?!
ええぃ、オレの“小澤”を引け!あれは良い馬だ、玉川にくれてやれ!」

のちに玉川改め、本郷伊予守義則は、
「薩摩に使えるのは、私の本意ではなかった。「士は二君に仕えず」とあるように、
十年働いて恩を返した上で、八丈島に行くつもりだった。
だが、家久様のお言葉は私の臓腑を貫き、今や薩摩を去るに忍びぬ。
これよりは一心に家久様に仕えん・・・。」

そう言って涙したという。

その後しばらくして、城近くで火事があり、筆頭家老・伊勢貞昌は馬で城に急行した。
家伝の馬術を誇る貞昌に先んじて、城門の前に弓を持った騎馬の士がいた。
「はて、わしに先んずるは何者だ?」
「本郷伊予にござる。新参者の私は騒動の中、城に入るべきではないでしょう。

ここで異変に備えまする。

ご家老、早く城中を守られたし!」

その態度に、貞昌は大いに感じ入った。

本郷義則はその馬術・弓術の全てを薩摩に伝え、

慶長二十年、惜しまれつつ世を去った。
家久はこれを悲しみ、一首を詠んだ。

馴れ馴れし 見し世の春も 限りぞと 移ろう花の 跡の悲しき

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 初代薩摩藩主・島津忠恒、目次

 

 

 

 

 

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