元和元年の夏、
秀頼が又叛逆(大阪夏の陣)をした事について、
本多上野介(正純)より書状が差し越され、
『軍勢を催し、一報があり次第まかり登るべし。』
という内容を申し来たため、
その一報を待っていた所、上野介、駿河守(山口直友)より、
卯月(四月)二十日の書状で、
『五月の初めに到来するよう、早々に出陣するように』と申し越したため、
五月五日、島津家久(忠恒)は、一万三千の軍勢を召し連ね、
鹿児島を発し、領内の京泊という所から出船し、
肥前平戸に舟をかけた所で、
駿河守方より、五月九日付の書状で、
『去る七日、大阪落城致したので、軍勢は残し置いて、
手廻りばかりにて早々に罷り出るように。』
と申し越した旨が、同十九日に到来した。
そこで兵船を平戸より返し、家久は手廻りばかりにて、罷り上がり。
六月二日、尼崎に着船致し、
伏見に於いて権現様(徳川家康)に御目見得仕った。
行平の御太刀、正宗の御脇差、御馬ニ疋を拝領仕った。
同月二十七日、二条城に於いて舞楽を仰せ付けられた。
七月朔日、御能が有り、同八日、伏見の御城に於いて御能が仰せ付けられた。
何れも家久は召し出され、見物を仰せ付けられた。
有り難き上意共であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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