父は笑って、息子の兜を外してやった☆ | げむおた街道をゆく

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天正12年(1584)3月、

有馬晴信の救援要請を受けた島津氏は、末弟・家久を総大将として、

肥前島原で龍造寺軍と対峙した。

出陣に先立ち、家久は一人の若武者を呼んだ。 

「豊久を、これへ。」
家久嫡男・豊久15歳、これが初陣だった。

家久の本音を言えば、息子の初陣に、この戦は選びたくなかっただろう。

兵数で倍する上に『武士道とは死ぬ事と見つけたり』と豪語する佐賀侍に勝つため、
この時、家久は過酷な軍法を発令していた。

一、一番槍、一番首の功を用いず。ひたすらに将目がけて突き進むべし。

一、わが隊将の首、敵に委ねるべからず。その仇、報ぜぬ時は一隊ことごとく討死せよ。

一、最初の持ち場から前進していれば良し、左右に避けたり後退しても目前の敵を
  撃破すれば良し、それ以外は隊将も士卒も死罪。

豊久は当初、薩摩へ戻ることを命じられたが、
「父の危機を聞けば、いずれにせよ駆けつけるものを、

ただ戻ったとあっては、
末代までの恥でございます。」

と、帰還を拒否したという。

「お呼びでしょうか、父上?」

甲冑を着込んだ島津豊久がやって来た。
「おう、良き武者振りぞ・・・ただ、兜の結びようが悪いな。

島津家の者は、兜の緒は、こうやって締めるものだ。」

家久は豊久の兜の緒を固く締め直すと、脇差を抜き放った。
「ち、父上?!」 「動くな。」
脇差で豊久の兜の下げ緒を切り落とすと、大将は若武者に語った。

「さあ、これで自分では緒をほどけまい。

お前が今日討ち死にしても、龍造寺の侍が、この緒を見れば、

『島津の若者は、二度と兜を外さぬ覚悟で出陣している。』と、お前の
心意気を賞賛するだろう。

もしも生きて戻れたならば、わしが兜を外してやろう。

良いか、生きて戻らねば、
その兜、外すこと許さぬ。

必ず生き延びるのだぞ・・・!」

戦いは、龍造寺軍が沖田畷の湿地帯に入り込んで動きが鈍った所を、

島津の伏兵が襲い、

総大将・龍造寺隆信まで討ち取る大勝利に終わった。
 

「豊久は?豊久はいかが致したッ?!」 

 

豊久は、帰って来た。

その手には、兜首さえ下げていた。

父は笑って、息子の兜を外してやった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 軍法戦術の妙を得たり・島津家久、目次

 

 

 

 

 

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