天正9年(1581)、島津軍は相良家の家老・犬童頼安のこもる水俣城を攻めた。
攻め手の大将は、島津家で武辺者の名を挙げるとき、
「まずは、武蔵守どの・・・」
と、必ず最初に指折り数えられることから、
『親指武蔵』と呼ばれる猛将・新納忠元。
後年、細川幽斎から古今伝授を受けた教養人でもある忠元は、
水俣城の西側、月の浦に陣を構えると、城内に矢文を放った。
『 秋風に 皆また(水俣)落つる 木の葉かな 』
(吹きすさぶ秋風のごとき島津の猛攻に、水俣の兵は木の葉のように吹き飛ぶでしょう。
そうなる前に、降伏されては?)
城内から、矢文が返って来た。
城主・頼安みずからの手紙を読んだ忠元は、
苦笑せざるを得なかった。 「やりおる・・・・・・!」
『 寄せては沈む 月の浦波 』
(何を言われる?そちらこそ、月の浦に寄せる波のごとく、我が城にぶつかっては砕け、
沈むだけでありましょうよ。)
忠元にも負けぬ教養と意気を持つ将に率いられた水俣城の士気は高く、
さすがの親指武蔵も苦戦を強いられた。
しかし、そこに届くは主君・相良義陽の討ち死にの報。
城は涙を呑み、開城となった。
のちに頼安は主君戦死の地・響野を訪れ、無念の歌を詠んだ。
『 おもいきや 倶に消ゆべき 露の身の 世に在りし顔に 見えむものとは 』
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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