朝鮮の役では補給が途絶えがちであり、 兵糧不足に悩まされることも度々であった。
慶長の折、五島氏の使いが、
「兵糧が幾らか不足しており、分けて頂きたい。」
と島津義弘の陣を訪れた。
兵糧不足はどこも同じであり、
五島氏の使いが方々で断られていたことを家臣達は知っていたので、
「お気の毒ですが断るしかありますまい。」という意見が大勢であった。
これに対し義弘は、
「他家へ使者を出すということは余程兵糧に困っているのであろう。
その困窮は『幾らか』どころではあるまい。
当家の兵糧も些か心もとないが、コメの一粒も余裕がないわけではなかろう。」
といったが家臣たちは承服しがたい様子。
島津家が秀吉に九州制覇の野望を挫かれたに対し、
五島氏は、即座に秀吉に属し本領を安堵されていたことも、関連していたかもしれない。
だが義弘は続けた。
「かの家と当家はいきさつこそ違えど、今は供に太閤殿下の下で戦う間柄ではないか。
過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば、今後当家と友誼を結ぼうとする者はおるまいぞ。」
この言葉に承服した家臣に重ねて義弘は命じた。
「少しでもよい、分けて進ぜるように。」
そこで兵一人あたりの一食の量を少しづつ削ることで兵糧を工面し、五島氏の陣へ届けさせた。
「過去に拘って今の味方に仇をなすな。」と五島氏を助けた義弘が、
後の関ヶ原で、立花宗茂に同じような言葉で救われていることを思うと、
いろいろ考えさせられる逸話です。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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