朝鮮の陣も終わりに近い慶長3年(1598)10月初め、
島津義弘率いる7千人が篭る泗川城は、明軍数万(一説に20万)に囲まれた。
義弘は城中を巡察して出撃を固く禁じ、門を固く閉ざし、鉄砲を撃つことさえも戒めた。
「よいか、弱きを装い敵を驕らしめ、その鋭気が衰えたところを討つのだ!」
明軍が城壁に取り付き始め、義弘が矢弾での応戦を許した頃、嫡子の忠恒がやって来た。
「父上、あれを!」二匹の狐が城中から走り出て、明軍の群がる中に消えて行った。
「人を恐れる狐でさえ、明軍を恐れぬ。あれこそ我ら島津の守護神、
稲荷明神の使いが、反撃の時を示すものなり!」
そう言った忠恒は、みずから鉄砲を取って数人を撃ち殺した。
その高揚に乗った兵によって、
城門が開かれると忠恒は馬に飛び乗り、単騎駆け出した。
忠恒は敵を斬り伏せながら風の如く駆け抜け、丘に至って休息した。
ようやく追いついた近習たちは、彼を諌めた。
「軽々しく進んで士卒と功を争うのは、良将とは言えませんぞ!」
しかし、伊勢貞昌が血刀を振るっているのを見た忠恒は、
「あれを見ても、まだそんな事が言えるか!」と怒り、
また百余人ほどの部隊に突き進んだ。
これに対し、明軍からは三人が同時に忠恒を襲った。
忠恒は馬から飛び降りながら一人を
斬り殺して首を取り、残る二人を近習に追い払わせた。
また馬に乗って進んだ忠恒は、
北郷三久が敵と組打ちをしているのに出くわし、
この敵を斬り、その首を北郷の家臣に与え、さらに攻め入った。
忠恒の武勇に奮い立った島津軍は敵3万余を討ち取って大勝利し、
忠恒は都合7つの首を取った。
明軍が去った跡には、狐の死骸が残された。
義弘「つまりアレか、ただの野狐を神の使いと称して、大将みずから一騎駆けしたと。」
忠恒「・・・はっ。」
義弘「何が「はっ。」だ!軽率かつ危険なマネを・・・近習たちも、なぜ止めなんだ!?」
近習の一人、川上四郎兵衛が進み出た。
「お言葉ですが、その軽率によって全軍が一丸となって、勝利しました。その事を思えば、
忠恒様の行為、危険と言うに足りません。」
「むうぅ・・・よかろう、今回は許すが、厳重に叱り置くものである!」
「ははーッ!申し訳ござらん、父上!!」という、『鬼石曼子』誕生秘話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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